個性とは何だろう

息子を保育園に送り迎えしていて気づくことのひとつには、子供たちにつけられた名前が実に様々である点だ。

男の子?女の子?そもそも日本人?これってアニメのキャラクターみたい・・など千差万別で名前の文化が多様化している。苗字にしてもなんでも日本ほど名前の種類の多い国はないそうだ。

個性尊重の時代・・・

詰め込み教育から一転してゆとり教育へと切り替わり、社会中が模索を続ける頃、個性尊重がそこかしこで叫ばれ、その犠牲になったのがボクたち二十台後半から三十代前半の、幼児を持つ親の世代ではなかろうか?

僕らの世代は第二次ベビーブームの世代であり、子供の数が多くて、とにかく競争が熾烈な環境で育った。高校へ行くにも大学へ行くにも、少なくとも十数倍の倍率を勝ち抜かねば、どこへも行く当てが無く、学習塾はどこも流行っていた。

そういった風潮の弊害として、社会的な事件があとを絶たず、詰め込み教育の如何が問われることとなった。それが今のゆとり教育という奴だ。

当然ながら学力は下がる。当たり前の話だが、当たり前に受け止められない世間がやっぱり存在する。結果がわかっていながら始めたことなのに、いざ成果が出始めると、世の中はそれを認めようとしない。最近の若者は漢字が読めない、簡単な方程式が解けない、などというのだ。

いつの世にも子供は犠牲者になる。

保育園に通う子供の親は、まさに時代を反映してか、それぞれに様々で奇妙な名前をわが子につける。

個性に飢えた世代

誰もが純粋にTVの中のスターに憧れ、詰め込み教育のもと個性を殺されてきた世代は、ようやくにして個性の重要性に気づかされた。

ふいに来日した外国人に、日本人には個性が無い、などと唐突に言われ、なんだか申し訳ないような恥ずかしいような複雑な心境で受け止めた。

自分を表現するのが不得意だった。そして誰もが自分をもっと表現したいと思うようになった。一部の芸能人や芸術家、スポーツ選手だけではなく、誰もが自分を上手く輝かせたい。

その思いが、保育園児に付けられた名前のひとつひとつからぼんやり浮かんでくる。


では個性とは一体なんだろう?

それほどまでに重視した個性というものは、本当に存在するのか?

今の世の中において、特に若い世代では、個性というキーワードは個人で抱えきれる以上にあふれかえっている。なんでもかんでも個性を口にすれば、重厚にも軽薄にもすべてが認めれれる。

特にこれを悪い傾向であるとも思わない。いつの世にも、社会は混沌として模索状態で落ち着くことはないだろう。

落ち着くはずがない。

個性というキーワードは、いわば集団信仰であり、実はもうずいぶん昔に形骸化してしまっているのではないか?もともと形の無いものを手探りでかき回したところで、どうにかなるものじゃない。

「お前はビルの上から、大衆を目前にどいつもこいつも蟻やなーと見てるやろ?そういうお前も下に降りたらただの蟻やで」

特別なごく一握りの天才には個性がある。

それは確かなことだ。

ピカソやニュートンやモーツアルト、夏目漱石の代わりになる人物はいない。

平凡な一般人のなかに、このような突出した能力における個性は無い。

どんなに着飾ったところで、髪をいじったところで、世界のどこかでは同じ格好をしている人がいる。

ではボクらの個性とはなんだろう。

君の髪、顔、体、声、指紋。笑い方、歩き方、しぐさ、癖。君の匂いなど。
人類史上まったく同じ人間は君のほかにはどこにもいなかった。紛れも無い事実である。

ナンバーワンからオンリーワンへ。数年前にスマップの『世界にひとつだけの花』がヒットした。

そしてボクらはわかりかけている。答えは出かかっている。

ひとりひとりの人間を大事に考える世界にしてゆくこと

これこそが、個性尊重の世の中のあるべき姿である、とボクは思う。

単純で簡単なこと、誰もが暗に気づいているはずのことを実行するのは、実は一番難しい。

考え過ぎるとなにもわからなくなる。

考えないようにするのも立派な考え方だ。

こうして人はバランスをとってゆかねばならない。
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by ronndo9117 | 2006-01-06 17:17
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